「縁」のチカラが、私を育ててくれました。

株式会社ビックカメラ 代表取締役社長 宮嶋宏幸

■大学時代の思い出は、アルバイトとボランティア。

本誌 子供時代のお話からお聞きしてもいいですか?

宮嶋 どうぞ。

本誌 どんな少年時代を過ごされたんですか?

宮嶋 やんちゃな子供でした(笑)。田舎の祖母の家のすぐそばに小川があったのですが、収穫したばかりの野菜や果物を持ってきては、川に放り投げて遊んでいました。それだけじゃなく、鍋とか釜とかも投げてしまうものだから、そのたび土蔵に入れられてました(笑)。子供の頃って、そういうものを川に投げて下流の方まで追いかけて、どっちが速いか競争しませんでした?

本誌 そういう遊びもしましたけれど、さすがに鍋は投げませんでしたね。宮嶋さんは、長野県上田市のご出身だとお聞きしました。長野県といえば教育に力を入れていますよね。

宮嶋 そうですね。だから、どうしてお前は・・・って、よく叱られていました(笑)。

本誌 ずいぶん奔放な少年時代をお過ごしになったようですが、将来の仕事を意識しはじめたのはいつごろですか?

宮嶋 一浪して大学に入学したのですが、私が選んだのは文学部英文科。漠然と先生になりたいなと思っていたんです。ほんとになんとなくで、理由も何もないんですよ。

本誌 それでも、教職を目指されていたのですから、ちゃんと勉強していたのではないですか?

宮嶋 まじめとはいえませんが、それなりにやっていたつもりです。しかし、大学時代の思い出といえば、ボランティアとアルバイト。ボランティアは週に1回、児童養護施設に行って、子どもたちと遊んだり勉強を教えたりしていました。いろんなところの学生が集まって参加するので、子どもたちを中心に自然と交流が生まれて、「公園に行って遊ぼう」とか「こんなゲーム考えたよ」とか。子供たちと一緒に活動ができてとにかく楽しかった。この時期に少しは成長したのかもしれませんね。アルバイトは、大手スーパーマーケットで家電製品の販売をしたり、宮大工の棟梁について家を建てたりもしました。

本誌 アルバイトで大工さんをやっていたんですか!

宮嶋 父親が器用で、家の物置なんか簡単に作ってしまう。その影響で、木材をノコギリできったり、カンナをかけたりするのは得意だった。近所の宮大工さんがアルバイトを募集しているよと友人から聞いて、お願いに行ったんです。

本誌 宮大工となると、普通の工務店と違って、本物の職人の世界じゃないですか。

宮嶋 そうなんです。だから、雑用でもやらせてもらえたら近くで見ていられるだけでいいな、くらいの気持ちで行った。でも、ノコギリもカンナも使えるものだから、じゃぁ、やってみろよと、いろんなことをやらせてもらった。たとえば、5寸釘のように長い釘をまっすぐ打ち込むのは、結構難しいんですよ。素人じゃできない。
大工さんって、外が明るいうちの仕事が基本ですよね。しかも、午前10時とお昼、午後3時に休憩がある。仕事が終わるとズラーッとおかずが出てきて、みんなで酒を交わしながら食事して一日が終わる。なかなか楽しいんです。そうこうしているうちに、棟梁のお嬢さんがそろそろ受験だから、勉強をみてくれないかと頼まれた。一応教員を目指していたので、大工仕事が終わった後に、家庭教師もやっていました。あと変ったところでは、国会議員の秘書のアルバイトもやりました。

本誌 議員秘書のアルバイトがあるんですか?

宮嶋 あるんですよ。わたしも驚いたのですが、父の知り合いから声をかけられたことがきっかけです。選挙のときは、名刺をもって後援者の方々の間を回ったりもしました。

■就職は、なんと他大学の先生からの紹介。

本誌 いろんなアルバイトを経験されていますが、その後の仕事観に影響を与えた出来事はありますか?

宮嶋 実社会の厳しさを本当に実感したのは、名前を出せば皆さんもよくご存じの会社でのアルバイト経験でした。当時、その会社では営業の新規取引先の開拓は全てアルバイトがやることになっており、私もいろんな会社に飛び込みで営業活動をしました。世間知らずの学生がまったく面識のない会社を訪問して、アルバイト先の会社が発行する雑誌の広告を取ってくるのです。もちろんそんな経験は初めて。勝手に飛び込んでくるセールスマンの相手をまともにしてくれる人などいません。運よく話を聞いてもらえることになっても、どんな話をしたらいいかもまったくわからない。自分の未熟さと社会の厳しさを実感しましたが、おかげで随分鍛えられました。

本誌 大学生時代のアルバイト経験が、社会の厳しさを知るきっかけになったんですね。

宮嶋 さまざまなアルバイト経験を重ねるうちに、自然と自分の夢が変わっていきました。卒業のころにはなんとなくですが、自分は小売業に向いているのではないかと思うようになっていました。

本誌 就職活動は順調だったんですか?

宮嶋 いえいえ、なかなかうまくいきませんでした。するとアルバイト先の別の大学の先輩が、心配してくれて自分がお世話になった就職部の先生を紹介してくれたんです。

本誌 あれっ?宮嶋さんとは別の大学の?

宮嶋 そうなんですけれど、大手スーパーマーケットでのアルバイト経験をその先輩に話したところ「うちの先生のところに行けばその会社へのルートがあるかもしれない」。そんないい話があるんだったら行ってみようと、その大学の就職課を訪ねたんです。ところが、その先生に相談したら「君には、その会社は向かないよ」 (笑)。

本誌 これもまたショックな話ですね。

宮嶋 いやぁ、まいったな、って顔をしていたんでしょうね。「ちょうどいい会社がある。ビックカメラに行ってみなさい」と、紹介してくれた。

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■辞めたくなっても、とにかく3年は我慢しろ。

本誌 ビックカメラのことは、ご存知でしたか?

宮嶋 名前は、知っていました。当時は創業6年目で、まだ池袋に2店舗しかない会社。でも、その先生のアドバイスに妙に納得してしまったんですね。「大手の小売業に行っても、お前はせいぜい歯車にしかなれない。お前みたいなタイプは歯車では、続かない」。続けて「とにかく3年は我慢しろ。いろんなことがあると思う。辞めたくなっても歯を食いしばって3年間は頑張れ。そうすると良いことがあるから」と言葉をもらった。なぜか、その言葉を聞いた時、この先生の言う事を信じてみようと思ったんです。ビックカメラの当時の人事部長とその先生は、かなり親しかったようで、新卒一期生として入社が決まりました。

本誌 ご両親には、ビックカメラのことをどういうふうに説明されたんですか?

宮嶋 正直に、カメラの量販店で、将来性もあるし、遣り甲斐がありそうと。母親には反対されました。でも、父は、おもしろそうじゃないかと。もともと商売をやっていた人でしたから、小売業には親近感があったのでしょう。自分自身も、ビックカメラを紹介されてから、業界のことを調べるうちにどんどん興味が湧いてきた。ビックカメラは、いまはまだベンチャーだけど。これからどんどん大きくなっていく会社だと、直感したのかもしれません。
 新井社長(当時/現会長)が、新卒一期生が入社してくるということで、いろんな夢を話してくれたんです。「今の売上は100億だけど、すぐに1千億になる。そうしたら創業の地である群馬の山に温泉を掘って、社員の家族みんなが楽しめる温泉施設を作るんだ」と。豪快なはなしっぷりに耳を傾けているうちに、「よし!この人についていこう」と決心したんです。

本誌 節目節目に、いい出会いがありますね。

宮嶋 そうなんです。日経新聞の交遊抄でも書かせてもらったのですが、議員秘書のアルバイトを紹介してくれた方は、結婚式にも出席していただいたし、社長になった時には、すぐにお祝いに駆けつけてくれた。大学の就職課の先生も数年前に、有楽町店に来てくれた。就職相談の時、1回だけしか会ってないんですよ。それでも覚えていてくれた。縁がそこで切れるのではなく、ずっと続いているのは財産かもしれません。

本誌 それは凄い!他大学から就職相談に来た宮嶋さんが、すごく印象的だったんじゃないでしょうか。

宮嶋 どうでしょう(笑)?覚えていてくれたのか、あるいは私は社長になったことを先輩が話してくれたのかもしれません。有楽町店に来て、販売員にいきなり「社長を呼んでくれ」と言ったらしくて(爆笑)。慌てて「社長。こんな方がいらしているんですが・・・」。

本誌 連絡してみると、先生だったんですね。でも、先生の「3年間我慢しろ」を守らなかったら、今の宮嶋社長はなかったということですから・・・。

宮嶋 ほんとうに、そうですね。

■入社2年目でオーディオコーナーの主任に。

本誌 最初に担当されたのは、どの売り場ですか?

宮嶋 カメラ売り場の一眼レフカメラコーナーです。実はそれまで、全くカメラを触ったことがなくて・・・。休みの日にカメラを借りて撮影するなど、勉強しました。当時はまだ白物家電を扱っていなくて、1階がカメラで2階がオーディオ・・テレビの取扱いはあったかな? 大きな商品は、在庫する場所もないし、配送対応も大変なので、基本的にはお持ち帰りできる小型の商品が中心でした。

本誌 仕事をはじめて、何が一番きびしかったですか?

宮嶋 やっぱり時間ですね。毎日、仕事が終わるのが遅かった。当時はまだ取手市の実家から通っていたので、きつかった

本誌 寝る時間がないですね。

宮嶋 12月はとにかく忙しかった。本店(現在のビックカメラアウトレット池袋東口店)1店舗で年商250~260億程売ってたんですよ。

本誌 すごいですね。

宮嶋 当時はビデオデッキの平均単価が10万円くらいしましたから。30万円クラスの高級機も飛ぶように売れた。

本誌 そこに、新入社員として放り込まれたわけですよね。もちろんハードだったとは思いますが、どんどんものが売れていく高揚感も感じましたか?

宮嶋 ありましたね。とんでもなく忙しかったけれど、楽しかったからやっていけたんでしょうね。

本誌 もうダメだ。辞めようと考えたことはありますか?

宮嶋 何回かはありましたね。とくに最初の3年は辛いことも多かった。

本誌 その原因は何だったんですか?

宮嶋 主に、先輩・上司との関係ですね。私たちは新卒一期生で、否が応でも目立ってしまう。私の場合、ちょっと生意気でしたし。けっこう厳しい指導も受けました。でも、辞めようと思うたび、大学の先生との約束が頭に浮かんで・・・。何が何でも3年間は頑張ろうと。そうすると不思議なもので、そういう人達のほうが、辞めていくんです。

本誌 急成長している企業だから、仕事以外のことに気持ちが移っている人は、居心地が悪くなっていくのかもしれませんね。

宮嶋 仕事にしても、今のようにちゃんとしたマニュアルやモデルケースがあるわけじゃない。日々試行錯誤の連続です。だから新入社員も、誰かに教わる暇もなく、まさに見よう見まねで仕事を覚えていく。すると、まず、自分で考えるようになる。失敗しても、その原因を考えて、次には改善する行動が起こせる。ぽんと現場に放り込まれたおかげで、実践の中でそういうスキルが身についていったのかもしれません。

本誌 それでもモチベーションを維持するのはたいへんではなかったですか?

宮嶋 自分でやれるんだと確信したのは、2年目でオーディオコーナーの主任になった時ですね。まだ小さな会社でしたが、売り場の責任者ですから、すごくうれしかった。ビックカメラ創業者の方針でもあるのですが「若さには無限の可能性がある。若けりゃいいってもんだ」という考えで どんどん若い人に仕事を任せてくれる。当然プレッシャーもありましたが、日々の仕事を通して成長していくのが、自分でも実感できました

本誌 年々大きくなっていく会社と、自分の仕事のキャパシティを比べて悩んだことはないですか?

宮嶋 それはないですね。会社の成長を肌で感じているから、ワクワク感もはんぱじゃない。店舗もどんどん増えて、社員もどんどん増える。私の時代、同期は13名。いまは、新卒採用200名くらいですが、多い年では500名以上採用していた年もありました。

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■「こいつが将来ビックカメラの社長になる」

本誌 急成長を遂げたビックカメラですが、いま業界自体も大きく変わろうとしています。

宮嶋 ビックカメラの最大の転機は、2001年です。有楽町店をはじめ大型店を4店舗同時にオープンした。業界の中で生き残りをかけた大きな戦いを開始した年でした。私は営業部長で、現場を取り仕切っていたのですが、とにかく採用も教育も追いつかない。十分な接客ができずに、クレームを頂いたことも度々です。でも、その怒涛の日々を一緒に乗り越えたスタッフたちが、たくましく育ってくれたから、今のビックカメラがあるんです。

本誌 家電量販店の中でのポジションをどうお考えになっていますか?

宮嶋 私たちの意識の中では、ビックカメラは家電量販店じゃないんです。こだわりの専門店の集合体。だから販売員の興味、専門知識、商品に対する愛情など、お客さまに対する提案力がビックカメラの武器。とくに専門性の高いカメラとオーディオに関しては、事業部として専門販売員を育成する方法をとり始めました。

本誌 業務提携や資本提携にも積極的ですね。

宮嶋 コジマやソフマップなど、いろいろ動いてきました。規模の拡大という市場戦略ももちろんありますが、提携のもうひとつの利点は、他の企業との融合による新しい発見にあるんです。

本誌 ユニクロとのコラボレーションも話題になりました。

宮嶋 新宿東口のビックカメラのビルにユニクロ様もテナントとして入ることになったとき、柳井社長が訪ねて来られて「同じ場所で展開するんだから、なにか面白いことをやりたいなぁ」とおっしゃったんです。そのあとしばらくして、「ビックロ」でやりましょうとプレゼンテーションしてくれた。ビックカメラ社内でも同じようなアイデアが出ていたので、これはもう、異存なし。ぜひに、と。ただ、こういうアクロバティックなコラボレーションは、既存のルールでは解決できない問題も多いので、トップダウンでやらないとうまくいかない。だから、私の判断で、外壁のデザインなどすべてユニクロ様にお任せしたんです。

本誌 ビックロではビックカメラのオープンとユニクロのオープン、タイムラグがありましたよね。

宮嶋 ビックカメラが2012年7月、ユニクロ様が9月のオープンでした。外壁のロゴも、最初は「ビック」だけで、ユニクロ様のオープンに併せて「ロ」をつけた。こういうアイデアも、すごく楽しかった。なにより、「ビックロ」をやったおかげで、これまで家電専門店に足を運ぶことのなかった女性のお客さまたちが、ビックの商品を手にとってくれるようになったんです。

本誌 これからも異業種コラボはやっていかれるんですか?

宮嶋 こればかりは縁のものですので、なんとも言えませんが、ビックカメラはこんなコラボもやる柔軟な発想の会社なんだなと思ってもらえれば、いろんな可能性が広がっていくと思います。

本誌 失礼な質問かもしれませんが、宮嶋さんはご自身が社長になると予感していましたか?

宮嶋 入社2−3年目の頃でしたか、当時の新井社長と同席している時に「こいつが将来ビックカメラの社長になる人間なんだ」とお客さんに紹介されたことがあるんです。将来は、新卒一期生から社長を出したいという気持ちがあったのかもしれませんね。その後も何度かそういうことがあって。もちろん私だけに言ったのではないのかもしれませんが(笑)。でもその刷り込みの効果なのか、ほんとうに、9年前上場のタイミングで社長を任命されました。

本誌 大企業社長になって、意識が変わったことはありますか?

宮嶋 大企業の社長だと思ったことは一度もないんです。気持ちは、ずっと店長のまま。つねに現場よりでいたい。だから社長室も商品本部のすぐそばに置いたんです。メンバーはやりにくいみたいですが(笑)。

本誌 何をやっても続かなかった宮嶋少年が、ビックカメラで30年続けられた理由は何だと思いますか。

宮嶋 どうしてでしょうね。辞める理由は、いつもはっきりしているけれど、続いた理由となると、難しいですね。先程も話しましたが、先輩との軋轢や家族との時間をもっととりたいなど、節目節目に気持ちが揺れたことはあるんです。それを跳ね返すチカラが、ビックカメラの仕事にはあったということじゃないでしょうか。