「正解主義」の呪縛を解いて、レアカードになれ!

藤原和博

リクルートで出世街道を驀進中に、180度舵を切った理由とは?
これからの日本社会が目指すべき姿とは?
そして、社会人としてのレアカードとはなにか?
東京都で義務教育初の民間人校長となり[よのなか]科で義務教育の世界を変えた
藤原和博氏が就活生のみならず日本社会の未来にエールを送る。

コンサルタントになるつもりが…

ぼくが就職したのは1978年。当時はまだ無名の日本リクルートセンター(現リクルートホールディングス)だった。いまでは、大企業に成長しているけれど、そのころは飛び込みの営業先で「ヤクルト」と間違われたり、「リク(陸)ルートがあるなら、海ルートや空ルートもあるのか」とからかわれたり。東大の経済学部を卒業して、そんなレベルの会社に入ったのだからまわりは驚いていたよ。でもぼくは、大企業に入るのが怖かった。大組織の歯車になることもそうだけど、顔も見たことのない総務とか人事とかの人たちに自分の人生をいじられることに対して、恐怖を感じていたんだ。

就職に際して、両親は何も言わなかったかって?ぼくの父は、最高裁判所の事務方を務めていた典型的な公務員。でも、ふしぎなことに、ぼくの就職に対してはなにも文句は言わなかった。ただひと言ぽつりと「公務員もいいもんだぞ」(笑)。

ほんとうは、コンサルタントになりたくて、就職先としてボストン・コンサルティングを狙っていた。今のようにメジャーなコンサルティングファームではなく、スタッフが2〜30人の小さな極東支社。マッキンゼーの大前研一氏が『企業参謀』を書いて注目を集めはじめていた頃で、マッキンゼーにも興味があったけれど新卒採用をしていなかったので、おのずとボストン・コンサルティング一本に絞っていた。大学3年のときにボストン・コンサルティングの採用試験を受けて受かったから、「大学を中退するから、今すぐに働かせてくれ」と頼んだんだ。でも、ちゃんと卒業してから来てくれと。あのとき、ボス・コンがすぐに来いと言ってくれていたら、ぼくの人生はまったく違ったものになっていたかもしれないね。

「29歳で辞めます」と宣言して、リクルートに入社。

リクルートとの出会いは、大学3年の時。必須の単位をぜんぶ取得してしまって、4年生になったら海外留学しようと考えていた。そこで、手っ取り早く渡航資金を稼ぐために、もっとも時給のいいアルバイトを探した先が、リクルートだった。その頃のリクルートはとにかく風通しのいい会社で、役職で呼ばずに誰に対しても「さん」づけ。アルバイトのぼくでさえ、社長を「江副さん」って呼べるんだから。リクルートはのちに日本3大ビジネススクールといわれ、野村證券、IBMと並び称されるようになるわけだけど、まだドブ板営業の企業まわりが中心だった時代。それでも、リクルートに魅力を感じたのは、そんな企業風土がぼくの肌に合っていたんだと思う。

面接の時に、「ぼくはコンサルタントになりたいので、この会社に入っても29歳で辞めます」なんて生意気なこと言った覚えがある。リクルートからすると、東大経済学部の新卒は初めてだったらしいので、ぜひともという感じだったように思う。内定をもらった後、会社の決算報告書を見せてもらったら、前年が創業以来初の減収減益。あらら。この会社潰れるんじゃないかと思った(笑)。

「出世志向」から「プロフェッショナル志向」へ舵を切る。

人生には何回か転機があると思うけれど、ぼくの場合は、まず就職でリクルートという会社を選んだこと。そして、2回めの転機は、広報課長から新規事業部長へと出世街道を驀進していた30歳の時。朝起きたら突然目の前の景色がクルッとまわったんだ。いくつかの病院をまわったのだけれど、どこに行っても原因がわからず、過労だろうと。よくよく調べると、メニエル症候群という厄介な病気だったんだ。5年くらいは後遺症が残っていた。このままハードワークを続けていたら、いつかは死ぬなと思い、がらりとライフスタイルを変えた。役員レースに参画しないで、出世志向からプロフェッショナル志向へと舵を切ったんだ。

29歳で辞めるはずだったんじゃないかって?ほんとうはそのつもりだったんだけど、メニエルを患いリハビリしながら仕事していたら、33歳の時(1988年)にリクルート事件が起こった。いま会社を潰したら、自分が採用した若者たちに申し訳ないと、会社に残って再建のためにがんばった。ようやく会社がもちなおしてきたところで、今度はダイエー・ショック(1993年ダイエーによるリクルートの買収)。転機のたびに大きな事件が起こる。まるで誰かがぼくをリクルートに引き止めるために筋書きを書いたTVドラマみたいでしょう。そんな渦中にいると、たいへんだけど、仕事が面白くて…。

マネジメントの力で「義務教育」を変える。

最大の人生の転機は、37歳のときから2年半、ロンドンとパリに海外赴任したことかな。そこで「成熟社会」とは何かを学んだ。イギリスやフランスは100年前から「成熟社会」。企業がどう、国がどう、ということより、個人の人生がどうなのかが大切だと考える人たちに触れて、漠然と自分が思い描いていた社会観が明確になってきた。日本が豊かな「成熟社会」を迎えるために、ぼくは何をすべきか。自分のなかで4つのキーワードが浮かんできた。

  1. 教育
  2. 介護を中心とした医療
  3. 住宅問題
  4. 組織を超えて個人と個人をつなぐシステム

4.はインターネットの登場で無条件で実現したので、あと3つ。そのなかで、自分の持っているマネジメントの力を持ち込んだ時にもっともレバレッジ効果が高そうだと思ったのが、教育。それも義務教育の世界にマネジメントを持ち込まなければ、教育は変わらないと思った。

教育を変えるといったって、評論家では変わらない。ビジネスで変えようとすると、受験産業に行くしかない。でもそれでは、「義務教育」は変わらない。ぼくの敵は、日本の義務教育が体現している「正解主義」「前例主義」「事なかれ主義」。これらが隠蔽体質をつくって、大津や桜ノ宮の事件のように不幸な子どもたちが生まれている。それをひっくり返すのがぼくのミッションだと感じていた。